昭和43年1月26日  朝の御理解   大坪かよこ
   


 
 キリスト教では愛の心を、仏教の教えは、慈悲心、慈悲の心を。そういうようなものを説きます。けれども、その愛も慈悲も、いうなら、平和の和、ね、和を保っていくという、和ということを申します。ま、素晴らしいことです。和も大事、愛の心も大事、それにその慈悲心といったような心は、いよいよ大事でございます。
けれどもね、それがその愛であり慈悲であるというておるだけでは、本当の慈悲も愛も生まれてこない。
その根本になるものは、信の心である。信ずるという心である。神も仏も信ずると、ね、いや、神や仏の働きを信ずるという。ね、この信ずる心が根本であって、そこから生まれてくる愛の心、これなら間違いがない。ね、神様を信じてやまんというところから、仏様を信じ切っての、慈悲心なら、こりゃもう絶対である。そこんところがです、やはり、生身を持っとります人間のことですから、ね、いかにも慈悲のように思い、愛の心のように思うとりましてもです、ね、その心が、ね、信の心というものが無かったらです、それは非常にたわいもないもの、すぐに崩れてしますもの、になるのです。慈悲心も、愛の心も、または、平和のこの和の心も、いよいよんなりますとね、あんな円満な人が、というふうになってくるわけです。
ああいう、ほんとに愛の心の強い人が、ほんとに慈悲深い人が、ね、それがいよいよになってくるとき乱れてくる。
ですから、あらゆる宗旨宗派の方達が、唱えられるそういうものも、その根本になるものは、やはり、神や仏を信ずるとうところ、いや、神や仏の働きを信ずる、というところから、生まれてくるところのものなんです。
ね、昨日、?高橋さんが、一日御用頂いておられました。いよいよ明日、須田先生をお迎えすると、それで、その、なにかその、ま、参考資料になる本はないかと、ま、須田先生の書かれた本はないかと、確かにあったんだけど、その、ないていうわけです。
いろいろ探しよりましたら、信は力なりという、須田先生の小さい、薄い本ですけれども、それがあったから、それを改めてこう読ませて頂いたとこういうのである。
ね、確かに、信は力なんである。ね、その信ずるその力、その信ずる力が、というのがあっての、愛であり、和であり、慈悲心なのである。
でなかったらですね、それをね、愛の心というものの、または慈悲の心というもののです、和の心というもののです、次の展開になってこない、働きになってこない。この人を愛しておるというだけではいけない。
この人にいうならば、慈悲心をかけるというだけではいけない。かけただけなんだ。
そこからです、ね、自他共に助かっていく展開が成されていかなければならん。
ね、その人に愛をかけたならです、ね、かける私も幸せなら、かけられるその人も、潤いというか、愛の、ね、その慈悲心に助けられるその喜びというのもがです、その次の展開、次の働きになってこなければならない。
その働きが力なんだ。そういう働きを、起こさせ得るもんの力なのである。信ずる力、ね。そこに、私どもはいかに信ずる力というものを養うていかなければならないかということが、分かります。
昨日でしたかね、一昨日でしたか、参っておられます田中さんが、お夢か、ご心眼を頂かれた。それがその柳、柳の木である。しかもその柳が、真っ赤な柳の木である。しかもその柳の木を丸くしてある、その、ものであったというのである。
もう、そりゃ田中さん、そのまま頂きゃ良かったい、ここでいつも御理解頂きよる、柳というのは素直な心という。ね、しかもその素直な心がです、熱情、赤というのは熱情ということである。
素直な心の上にです、いわゆる熱烈な修行精神というか、ね、熱烈なその熱情が必要なのだ。そこからこの和の心が生まれてくるんだと。これが大事なんだ。家を治めていくのに田中さん、それが事業がどうぞ発展いたしますようにと、ご主人がなさっておられる事業なら事業を願うでもです、そういう心で主人に接し、そういう心で、主人の仕事を願うということになってこないと、いけないですよ。第一必要なのは、柳のような素直な心が必要なのだ。これだけでもいけない、それに熱情がかけられなければ、ね、しかも、それが円満な和の心になっていかなければならない。というようなことを、ま、お示し頂いて、これはもう、あんたのかけ守りですよと言うて、申しました。
そのことをいつも思うたら良いのですよと。
まあ、ここで素直と言うと、いつもすぐ繁雄さんの話しが出ます。
確かに私は、馬鹿ほどに素直な方だと思うです。悪い表現ですけれどね。ところがその繁雄さんの信心には、いつもその、熱が欠けておる。赤の心が欠けておる。
ね、そこから、生まれてくるばかじゃなきゃだめなのだ。素直な人、ああ、何事でも事なかれ主義で、円満で、いいや、そりゃたとえばこう、その、いわゆる皆さんが繁雄さんを知っておられますが、繁雄さんのご性格はです、どこ行っても、やはり円満なんです。けれどもです、この真ん中に赤い、その熱情が欠けたら、値打ちはない。値打ちがないことはないけれども、今日私が申しますようなことろには、段々遠いことになってくる。
ね、寒修行が始まって以来、朝のご祈念に、もう、私がここに出る大体時刻ぐらいには、見えられます。
夜は夜で、夜のご祈念、夕べもう、いろいろ御用があっとりましたから、やっぱ十二時になりましたでしょう。
ね、それは人間ですから、生身を持っとりますからその、疲れがでなはらないはずはないんだけれども、そこから生まれてくるもの、ね、それはなにかと言うと、その、眠くない、きつくないということなんである。
ね、それを厳密に言いますとね、やはり心の隙ができますと、やはり眠り倒れることもあろう。ね、昨日は、福岡の桜井先生が、朝のご祈念に自転車でお参りして来た。
前の日もおかげ頂いて、いろいろ一睡もせずに、も、その足でまた、椛目に、合楽まで向かって来た。も、先生私は、もうあの、自動車の通る道をですね、どういう風にして踏んで来たか、眠りながら来とるから覚えん、ちゅう。
眠りながら一生懸命踏んで来た。まあ、ようも溝にも落ち込まんで、やって来たもんだというわけなんです。
ね、そこにですね、私はその、成る程神様へ打ち向うて来ると、神様がこういう風にして、誘導して下さるんだ、神様がこういうご守護を下さるんだという、力が生まれえてくるんです。そういう体験は皆さん沢山持っておられるでしょうが、高橋さんなんか、一年間、単車であの毎朝、参って来たんですよ。ね、お母さんがもう雪の日なんかはもうほんとに、あの人を送り出すときには、もう、拝まにゃおられじゃったと、こう言われるようなまあ、修行を続けたんです。でもやっぱりあの、しかも単車です。それでもこれからこれまで全然覚えなかったという時代があった。
もうほんとにもう、道すれすれに走って来て、はっと見て目が覚める。
単車に乗ってね、ね、雪の日なんか倒れ転びしながら、参って来たけれどです、おかげで、溝に落ち込むこともなからなければ、衝突することもなしにおかげを受けた。
神様に向うて来るということはですね、ね、そこに私は信ずる、そういういわば、繁雄さんの信心に、あんたの信心に熱情がかけられたら、はあ、素晴らしかろうとこう、その素晴らしかろうと、欠けておったものが、この寒修行で、燃え立ってきた。
ね、そこにはです、眠くもなからなければきつくもないというような、いわば心の状態です、それはそうでもなかろう、わたしがたとえばなら、もう下がっていろいろお話しをしておると、お話しをしながらです、眠っておられることがある。
はあ、もそれが当たり前なんだ。けども自分の心の中には、眠くない、自分の心の中にはそれがじゅつなくないという、おかげを頂いておられるということだ。そこに信ずる力というものが、いよいよ生まれてくる。その信ずる力が、ね、様々な銘々の、いわゆる生活の現場において、発揮されるときに、偉大な働きというものがなされるのである。
ね、もう一、二ヶ月前だったでしょうか、福岡の麻生さんが、兄さんを、夫婦を導いて、お参りして見えた。いろいろ困ったことがあって、お参りした。兄さんも信心しなさい、おかげ頂きなさい、久留米に済んでおられるからもう私達は福岡からでも、こうやって毎日参ってるんだ。福岡、久留米からじゃわけ無いじゃないですか、というてまあ、導いてきた。以前に、そうですね、もう十年ぐらいなりましょうか、前にお会いしたことがあった。私しゃ、そんときにびっくりした。麻生さんが二人おられるから、ね、何とその双子だもんですから、にとるのは当たり前、ね、ここに見える麻生さんが弟さんで、もう一人の方が、お兄さんなんである。そりゃもうほんとに、私はもう見違えました。まあ、双子ちゃ、よー、似とるもんだなー、と私は思いました。もう体といい、体格といい、ところが五年経ち、十年経っていく今日になってきたらですね、もう全然双子と言わんなら言わんで良いぐらいに変わっておられるということですよ。
ね、そこにね、私は信ずる力をもっての生業、生活の中にです、ね、安定感が生まれるというか、安心がいよいよ育っていく人と、でない人の違いをはっきり見た気が致しました。最近の麻生さんの人相というもは、もうこの人は絶対おかげ頂くだろうと、こういう人相になってきましたね。
全然物腰から変わってきた、言うことも違うてきた、同じ、同時に母親のお腹から出てきたときには取り違えるようにあったのがです、信心の、なされるもの、なされてないものの違いが、こんなにも違ってきた。もう双子と言わんなら、双子と言わんで済むように、違うんですよ。道歩きよる、何とはなしに、けんけんと片一方はあるわけですね。片一方は、何とはなしに円満になっていくんですね。
それから、もちろん、肉付きもふっくらとなってくるです。
信心をさして頂いたらですね、私はお互いの人相が変わるくらいなおかげは頂かなきゃいかんと思うです。鏡を見なさい。去年の私と、今年の私、ね、心に信ずる心が強うなってくる、神様のお願いさして頂いて、例えばお取次を頂く、ね、そこに、不安も心配もここに置いて行けれる。ね、そこからです、ね、いわば、貧相になっていく、福相になっていく、いつも心配顔してござる、いつも片一方は、にこやかにしてござる。
先がどげん成るじゃろうか、と思うてござる。先は絶対おかげになると確信して、生活をしておる。ね、そこから生まれてくるところの愛であり、和であり、慈悲心でなからなければ、ほんとのものじゃないということ。
ね、ただがむしゃらに信ずる、ここにちょっと、そのお互いの、ブレーキの必要なところがありますね。
その点、合楽で信心のけいこをさせて頂いてる人は、まあ、ないと思うんですよ。それはなぜかというと、いつも自己反省を強くすること、ね、自分を知れ、信心とは、まず自分を知ることだと、私は申しますようにですね、その、あまりにも信ずるあまりにですね、ありますよ、教団の中にでも、それこそ偉い信者がありますよ。いくらも、実にがむしゃらなんだ、おれの言うことは、間違いない、もうそういう生き方なんですね。
だから、そういう、確信してから、それをそうしておりますけれども、それではもうそれこそ、周囲におられないくらいに、匂いがぷんぷん致しますですね。ま、言うならば、ドンキーホーテー的な信心に出してはなりませんです。怖いものはない、前に進む、他には知らん、言うなら猪みたいなよう信心、確信が生む、そして、たとえばね、何かにがーんとコンクリートのようなものにぶつかってから、初めて、その我に帰るといったような、そういうことは私は、お互い、考えなきゃいけませんですね。いかに、確信の生活と言うてもです、ね、いわゆる信ずる力が強うなると、参り?ましてもです。
ほんとにこの神様をこの信ずるということ、ね、いよいよ明日に控えました、須田先生のお出でをです、・・・?ここんところに私がその思うんですけれど、こりゃいっちょどうでんこうでん、須田博士をこんだこちらに迎えてから、いっちょ講演でもして頂こうかといったのではなくてですね、もう須田先生自身が、行こう、来て下さいといったようなことになって、このようないわば働きになってきたのですから、もう、いろはのいのところからです、ね、も、神様のおかげで、神様がここへお指し向けくださるんだと言うことを信じんわけには参りますまいが。皆さん、そこを信じなきゃいけません。そこを信じられると、神様がお差し向けになった、須田さんの中から、銘々がなにおか頂かなければ、神様に対しても、相済まん、ということになるでしょうが。
ね、そりゃもう、頂所はどこでもいいんです、先生の態度からでも、お話の中からでも、ね、ある人は話しの始めのころ、ある人は中、最後の人は、一番最後の結びのところにでも、ね、どこにか自分の血肉にさして頂ける信心を頂かせて頂かなければね、差し向けて下さった神様に対して、相済まん。だから普通とは違うでしょうが。ね、そこで私はその須田先生と説明紹介する委員長の挨拶、私の二十何日かの朝の御理解、ね、そしていよいよ須田先生の信心を頂こうという、も、それをよしなにしたいというので、このパンフレットを作って頂くことになりました。おそらく今日、夕方には出けて来るでしょう。ね、それにはメモ帳まで付いております。ですから、お互い筆記道具を持ってきて、いわゆるそのあそこだ、ここだと思うとこは、メモでもさせて頂いてから、それをまた後から検討するというくらいな、私は勉強が必要だとこう思うですね。この度は、ね、ですから神様が、こおこにお引き寄せ下さるというそういう働きになっておるのであるから、他に心配はないのだけれどもです、ね、やはりそこには、私どものせねばならないことはです、ね、用意おさおさ、怠りないないところの受け心を作っておくということが、必要なんだ。せっかく見えた先生に対してお粗末ご無礼があるようなことがあっちゃならないという、この気持ちは必要なのだ。で、そのことを私、今朝からもお願いさして頂いとりましたらです、ね、全面的に神様の働きなのであるから、その神の働きの邪魔んならんように、邪魔んならんようにというい信心を、みんなに伝えておけということです。
ね、神様の働きがあっておるんだ、こうして全面的に、ただその神様の働きがです、その働きの邪魔んならんように、邪魔んならんようにという、信心をしておけと。
皆さんそこが必要なんです。あ、神ながらじゃから、というて、ただ、神ながらで出て来ただけじゃいかん。ね、これはそのことだけじゃありませんですよ、お取次を願われると、神様の働きは早速始まります。こりゃもう絶対始まります。ね、ですから、その神様の働きをです、私どもの詰まらん人間心を出したり、ね、いわゆる神様の心とは反対の心を使うたりしてから、そのおかげを崩してしまうのですよ。
おかげは絶対なんです。それを信ずる。ね、その信じさせて頂くためにも、私どもがお取次を頂いたら、もう早速神様の働きが始まるのであるから、そのおかげの頂けれるところの状態にならして頂くようにというて願うんです。
ね、いわゆる自分の心の中に和賀心、和らぎ喜ぶ心、和の心、安心の心、そういう心を願わして頂くというところに、神様の働きがスムーズに始まる。
ところが、不安である、ところが心配である、その不安が心配がです、何か本気での表行の一つもさしてもらうところからです、修行でもさしてもらうところから、不安が消えていく、心配がなくなっていく、そこに完全なおかげが頂けれるということになるのですよ。
ね、どうぞ一つ明日は、それから明後日、ね、の二日間にわたっての、先生のお話をです、ね、そういうひとつ受け心を作って、神様のそういう働きのお邪魔にならんような心の状態を持ってです、ね、なにをおいても、神様へ向かうてくるところの一心を持ってです、一つ頂かして頂こうじゃないですか。ね、先生が、ね、口を開けば仰られるという信心は、御用なり、いわゆるまたは信は力だと、ね、そういうような生粋のところにですね、一つ触れて行きたい。そして今朝の御理解をもう一辺、一つ考え頂きなおしてです、ね、私度も同様のおかげを頂いても、ね、これは、今日は愛とか慈悲とか、和とかという言葉を使いましたですね。それもやはり、信ずる力を、が、根本になってのそれでなからなければ、次の展開になってこるところの働きになってこない。
という風にま、申しましたですね。その信ずる力がです、ね、安定した生活、でない生活の別れ道を、麻生さん兄弟の例をもって、申しましたですね。
何年信心しておっても、ほんとに自分の人相すら変わってこないとするなら、これは、おかしな話しである。ね、ほんとに姿、形は瓜二つであっても、内容が違ってくるとです、片一方は同じ顔であっても、けんが出てくる。ね、心配する、心配賓相になってくる。同じ形であっても、片一方の心には、福福しいもの、和らいだものが生まれてくる。
ね、そういうおかげを頂くためにも、ね、その信の力をいよいよ、いただいていかにゃならんのでございますから、ね、一つしっかりそのことを願わしてもらい、祈らしてもらい神様の働きに、の、お邪魔にならんようなおかげを頂きたい。私どもが取次を頂いて、願わして頂くそのおかげにしても、取次を願わして頂く事柄に致しましても、神様の働きは絶対なのだ、その絶対なものを、私が、絶対の信を持って、それを受け止めさしてもらう。その絶対の信というのは、私どもの心の中に、ね、そのおかげのお邪魔になりませんように、お邪魔になりませんようにという、もう、いつも自分の心の中にそれを感じ続けられる信心、はあ、こういうことを思たんじゃおかげの邪魔になる、こういうことをしよったんじゃ、いよいよおかげが崩れてしまうだろうというような、生き方をもってです、いよいよ信の力を高めて行きたいと思いますですね。どうぞ。